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「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか? ぜったいにあきらめないぞ」

スティーヴン・キング『ミザリー』

【非論理的な妄説なのか?】

 はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。

 というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。

 まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。

美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。
別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿(醜さ)を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。
(くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです)
作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。

 おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。

 そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。

 気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。

 しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。

 それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か? そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか?」といった問題ともつよく関係している。

 ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。

【天才作家キングと『ミザリー』という名作】

 そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。

 おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。

 その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。

 キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。

 作品を熱狂的に偏愛する「ファン(この言葉は、ファナティック=狂気から来ているという説がある)」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。

 なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。

 どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。

 しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。

 あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは(とあえて書くが)、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。

 自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。

 とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。

 キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。

【インターネットの「アニー」たち】

 1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す!」という言葉が映し出される場面がある。

 「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。

 庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。

 インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。

 庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線(まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド)を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。

 もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。

 ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。

 ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。

 もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。

 いや、待て。ほんとうにそうだろうか? このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。

 それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛(ナルシシズム)の域を出ないのではないかと。

 

【ただの「異世界もの」に見えるのだが……】

 マンガ『異世界車中泊物語』の最新刊である第四巻を読みました。これが、意外にといっては何だけれど、面白い。

 タイトルやあらすじだけを見たならよくある「異世界もの」のバリエーションのひとつでしかないように感じられるのだけれど、どういうわけか胸に迫るものがあるちょっと不思議な作品です。

 むしろ、この手の「異世界もの」に飽きてきている方にこそオススメしたい、そういう物語だといって良いでしょう。

 ただ、そうかといって、それではどこが具体的に面白いのかというと――うーん、どこだろう。

 物語は、仕事で大失敗をしたあげくテキトーないいわけをして逃げ出してしまったダメ人間の主人公が、偶然(かな?)、ある異世界に迷い込むところから始まります。

 そこでかれはお約束通りにひとりの少女と出逢い、彼女と心を通わせることによってほんの少しだけ成長します。そして、それから現実世界に戻り、社会人としてもわずかにレベルアップしていくことになるのです――と、こう書いてもこの面白さは伝わらないだろうなあ。

 というか、この記事を書いているぼく自身がまだうまく物語の核心を把握し、言語化できていない気がする。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」でも、やっぱり言語化できていないと語られていますね。

仕事で失敗した主人公が、リカバーもせず、資料を持って会社を逃げ出してしまうんですね。せめて、資料置いて帰れよ、と思ったのですが、、、、そこではなくて、こんな難しい仕事与えた会社が悪い、とか他責にしまくって、馬鹿馬鹿しくてやってられねーって逃げ出すんですよね。

この物語のコアは、車で「異世界転生して現実に帰ってきて行ったり来たりする」所に面白さがあるのですが、異世界に行ったことで、主人公が心を入れ替えて、仕事を頑張ったり、謝れるようになるんですよね。

(中略)

ちなみに、この記事では、では「何によって変わったか」が、まだペトロニウスの中で言語化できていません。なので、もう少し考えたいと思います。めちゃくちゃ好きになったので、何度も読み返しているので。


 そのくらい、一見すると非常にわかりやすいごく単純な異世界ハーレムラブコメの類型に見えるにもかかわらず、どこか異質な印象を受けるうまく把握しづらい作品なんですよね。

 いや、その「どこか違う」というのもあくまでぼくがいっているだけに過ぎないとそうなのだけれど、たしかにぼくのゴーストが囁いている、これはふつうの「異世界もの」とは何か違っていると。

 それじゃ、具体的に何が違うのかといえば――ぐぬぬ、何だろう。

 どうにもうまく表現できないのだけれど、あえて言葉にしてみるなら、この『異世界車中泊物語』は「現実」と向き合っていると思うのですね。 
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 苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。

 そのなかでも、しんじつ最高の天才と呼びたいのが以下の三人だ。

 野球二刀流の大谷翔平。

 フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。

 将棋八冠の藤井聡太。

 いずれもその分野における最高の実力者である。

 そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。

 また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平 羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。

 まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。

 それでは、そんなかれらの共通点とは何か。

 いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。

 ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。

 かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。

 それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。

 しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。

 あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。

 それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。

 現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。

 まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。

 こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。

 もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。

 そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。

 そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。

 しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。

 あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。

 「羽生結弦」が苦手だ。
 などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。
 率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。

https://dot.asahi.com/articles/-/198345

 自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている(ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている)。

 「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。

 こういう人もいるのだ。

 また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、

大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。


 「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。

 かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。

 まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。

 これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。

 そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。

 さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。

 ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。

 その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。

 人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。

 フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。

 このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。

 そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。

 つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。

 北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。

 もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。

 こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。

 フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。

 仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。

 大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。

 北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。

 自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。

 人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。

 しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。

 それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。

 ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。

 
弱いなら弱いままで。

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海燕

1978年新潟生まれ。男性。プロライター。記事執筆のお仕事依頼はkenseimaxi@mail.goo.ne.jpまで。

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